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早合点

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早合点をする人は、人の話を聞くのが苦手のようだ。

早合点する人が何か質問されて答える場合、相手の話をよく聞かないで的外れな答えをしてしまいがちだ。
とくに自分の得意な分野の質問だと、質問者の単語=キーワードに反応して知識の「引き出し」が開いて、ぞろぞろと「蘊蓄」が出てくる。このあたりはオートマチックのようで、毎回同じ話になる。しまいには、誰でも知っているような単語の解説まで始まる始末。特に専門家を自負する人が「素人」相手に解説するときによくあるパターンだ。テレビでもよくお目にかかる。
何を隠そう私も的外れな回答で、人を不愉快にさせたことが何回もある。「そんなことを聞いてませんよ」と言ってくれる人はありがたい。謝ることができるし、以降気を付けることもできる。だまって「そうですか」で終わるのは大人の対応かも知れないし、本気で怒っているのかも知れない。逆に関わり合いになる手間を惜しまれているのかも知れない。

早合点する人が人に何かを教えてもらう場合、相手の話をよく聞かないで的外れな答えを勝手に導き出してしまうことが多い。
まるで、子どもが勝手に走り出して迷子になるようだ。相手の答えの中にある単語=キーワードに反応して、知識の「引き出し」が自動的にオープンして蘊蓄と結びつき、自らつじつまの合った答えを導き出してしまう。分かりやすくてつじつまの合った結論を早急に得られて満足する。しかしその答えは間違っているから、話が進むにつれてつじつまが合わなくなっていき、深い霧の中へと迷い込んでいく。その後どういう態度に出るかはケースバイケースのようだ。
早合点した内容を「~と言うことですね」と言ってくれる人は、「ちがいますよ」と言えるから良性だ。(たとえ自分の理解力を誇示したいという気持ちがあったとしても。) 黙って聞いていて一見理解したように見えて、後になってから「さっきはこう言った」と、自分の誤解をさもそのように教えられたというように不満を言う人は救いがたい。不信感の固まりとなっていて、もう何を言っても通じないのだ。

私の知る範囲では、年齢を重ねた人や何か専門を持った人ほどこういう傾向が強いようだ。人生経験が豊かで知識も多く「引き出し」をたくさん持っていることと関係がありそうだ。自分の経験や知識をうまくコントロール出来ずにその上に乗っかってしまっている。もったいないことだ。
一方、年齢を重ねた人でも若者のように人の話を聞き、知識を広げている人はたくさんおられる。人の話を聞くことに「一手間かける」という習慣が身についているのではないだろうか。

早合点というのは、結局人の話を聞く時間と労力を惜しむことだ。それが習慣になって身に染みついてしまった人は、すれ違いと大小の不利益とストレスとともに暮らすことになる。しかも周りの人を巻き込んで。

人の話を聞くのにもう少し手間を掛ければ、そしてもう少し器を広げられたら、つまらない摩擦がだいぶ減って、今よりは気持ちよく暮らせるのではないだろうか。

「人は、分かりやすくてつじつまの合った話を信じる」とある人から聞いた。そのとき、まさかと思いつつ、一方で思い当たることがいろいろ出てきて、目から鱗の感じがした。

その後、意識していろんな事象を見てみると、確かに人は分かりやすくてつじつまの合った話を信じやすいと理解できる。詐欺にだまされるのも、効果のない健康食品にはまるのもその一例だろう。
ある堅い職業の人が、アメリカからは月の裏側が見えると思っていた、という話を聞いて驚愕した。地球の裏側にまわると月の裏側も見える、という「裏つながり」でつじつまが合っている。

決定的なことがあった。
ある責任ある立場の人が、「○○さんの話は、分かりやすくてつじつまが合っている」と言って、○○さんの話を鵜呑みにしているのだ。重い責任を持った方がモロに言うとは、驚きのあまり言葉が出なかった。

いわゆる理系の人間は、こういうテーマには敏感な傾向がある。本来、自然科学をベースに生きているわけだから、科学を否定することは自己否定につながる。物心ついた頃から「科学的である」ことに価値を見いだし、非科学的な言動を排除して成長してきたのだ。

分かりやすいことは大切なことだ。問題は「つじつまが合っている」というところなのだ。
つじつまが合っていない話は、自己破綻しているから論外だ。では、つじつまが合っていれば正しいか、というと必ずしもそうではない。つじつまが合っていても、事実と異なる話はいくらでもある。先の○○さんの話はその典型だった。

理系の人間だって深く考えていないと、思い込みになったりだまされたりすることがある。
つじつまが合っているだけでなく、事実と合っているかが決定的に重要なのだ。しかしその事実を知らなければ判断のしようがない。たとえば、「花粉症にならないために花粉をいっぱい浴びて免疫を付ける」と言っている人がいた。何の悪意もないし健康でいたいという願いがこもっているが、花粉をいっぱい浴びて免疫が付いたら花粉症になる、という事実を知らないのだ。

善良な人間の特性を知った上で、それを利用して利益を得ようとする人がたくさんいる。
利用されたら、いつか必ず不利益を被ることになるという事実を、重く受け止めたいものだ。

今年の冬から、小さな子どものナメクジが風呂場に出没するようになった。浴槽はステンレス製で壁との間に30cmくらいのタイル面があり、石けんやシャンプーを置いている。子どもナメクジはその付近から、シャワーの混合水栓付近にいる。

生まれたての米粒より小さいものから、はっきりナメクジとわかる1cmくらいのものまで、日替わりでやってくる。よく見るとカタツムリのようにツノ(目)があって、可愛らしいと思う瞬間もあるが、やっぱり気持ち悪い。シャワーのお湯がかかって流れて来てもいやだし、まして殺生は避けたい。やはり若干のストレスになる。

ところが昨夜、いつものようにナメクジを見ながらシャワーを浴びていると、水滴を嫌ったナメクジが浴槽とタイル面の間の割れ目に入っていくではないか。おそらくここからやって来たのだろう。なるほど、ここだったのか。この割れ目は阪神大震災のときにできたもので、壁面のタイルも一番下の段は横にヒビが入っている。地震の夜このヒビを発見して、「座屈」という言葉がうかんできて震え上がったものだ。

地震の後、ヒビや割れ目をパテで補修していたが、去年の暮れ頃にパテが取れてそのままにしていた。小さな割れ目なので、大きなナメクジは通れない。だから子どもナメクジばかり出没するようになったのだろう。この床下がどうなっているか今は考えないことにして、まずはパテで補修することにした。床下が乾燥していることは、今年1月に猫が入り込んだときに確認しているので、今は出入り口をふさぐだけにしておこう。

バブル直前の1980年代のこと。

夏の朝、土曜日で会社が休みだった。

俊徳道駅付近の歩道を歩いていると、右足先が何かにつまずいたような気がした。

数歩すすんだところで、つま先の違和感が消えないので見てみると、親指の先にまっすぐ細い棒が刺さっているではないか。

サンダル履きの生足だから、確かにつま先は無防備だった。

目を疑いながらも引き抜いてみると、つま楊枝だ。

刺さっていた深さは5mmくらいで、親指の先に穴があいたが血は出なかった。

ちょうど飲み屋の前だった。

家に帰って足を石けんで念入りに洗い、その後化膿したり体調が悪くなったりということはなかったが、しばらくはいろいろ悪い事態を考えて不安だった。

誰がつま楊枝を捨てたか知らんが、ほんとうに腹が立つ。

本当にこんなことがあるんですよ。

大事に到らなくて本当によかったですよ。

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